大森貝塚の発見者として知られるエドワード・S・モース博士は、明治10年(1877)にシャミセンガイの研究で江の島に東洋初の臨海実験所を
昭和39年(1964)の東京オリンピック開催を記念して作られた噴水池。噴水に設置された計5体のブロンズ像は、日本芸術院会員で藤沢を
江の島弁財天信仰の象徴である青銅の鳥居が創建されたのは延亨4年(1747)のこと。現在のものは文政4年(1821)に再建されたもの
江戸時代、幼くして失明した杉山和一という鍼医がいた。 江の島弁財天の祠へ詣でたとき、山から下りる帰り道に福石につまずいて倒れてしまっ
江の島の貿易商サムエル・コッキング氏が明治15年(1882) から造成した和洋折衷の庭園跡。総面積1万㎡を超え、園路、築 山、池、花壇の
江の島サムエル・コッキング苑の中にある展望灯台で、苑と同じく平成15年(2003)にリニューアルされた。避雷針まで入れた高さは59.8m(海抜119.6m)あり、
奥津宮へ向かう道の途中にある庚申塔は、市指定重要有形民俗文化財の珍しい四角柱の石塔。 4面には「見ざる、聞かざる、言わざる」のほか
山田流琴曲の開祖・山田検校は、宝暦7年(1757)、江戸うまれ、幼くして失明するものの、琴を学び、人々に感銘を与える曲を多数作り、のち
江の島岩屋のほぼ真上に位置する。「恋人の丘」に設けられた龍恋の鐘。江の島に残る「天女と五頭龍」の恋物語にちなんで造られたもので、
島の西南端、岩屋の周辺に広がる、隆起現象でうまれた海食大地。屏風のように連なる断崖の真下にあり、打ち寄せては砕ける波と、富士山
島の最奥部にある海食洞窟。古くは弘法大師や日蓮上人も修行したといわれ、江の島信仰発祥の地として崇められてきた。養和2年(1182)
江戸時代の鍼師、杉山検校の墓で、一周忌の命日、元禄8年(1695)5月18日に建立されたもの。墓碑の形は笠塔婆型で市指定史跡。杉山検
鵠沼の地を愛してこの世で亡くなった中国人音楽家、聶耳を記念して昭和29年(1954)に碑が建てられた。聶耳は、1912年中国雲南省昆明
大正14年(1925)、辻堂に実業家・近藤邸は、当時の和洋折衷の代表的な建物。建て主の近藤氏没後、老朽化により取り壊しが決定されてい
『新編風土記』にも出てくる小池家の先祖は足利尊氏に仕え、江戸時代は柄沢の名主を務めた名家。屋敷は天保12年(1841)に棟上げされ、
神光寺裏山や周辺には8世紀頃を中心に作られた横穴墓群があり、市の史蹟に指定されている。アーチ形の墓の跡で、奈良時代前期から後
村岡城は坂東八平市の祖、平良文が村岡に居住した10世紀後半に築いたといわれている。城と言っても空堀をめぐらせた山城のようなもの
応永23年(1416)、足利持氏打倒のために上杉禅秀の乱が起こった。その戦で戦死した人馬を遊行上人は、敵味方の区別なく葬り供養した。
県道44号線沿いにある小さな地蔵。「女性の願いならなんでも叶える」言い伝えられ、願い事をしにくる女性が後を絶たない。願いが叶ったら顔に
明治5年(1872)3月、三觜八郎右衛門が子供たちの教育のために開設した塾。当時は、「読書院」と命名された。明治11年に「耕余塾」と改称
源頼朝に鎌倉を追われた源義経は奥州平泉に逃げていたが、文治5年(1189)に藤原泰衡の裏切りで、衣川の館で自害した。鎌倉に送られた
伝説上の人物、小栗判官が冥界に送られ、またそこから出てこようとしたと伝えられる塚。道路の建設によって壊され、現在はその跡に碑が
庚申信仰は、十干十二支の組み合わせで60日に一度めぐってくる庚申の日に、体内にいる三尺という3匹の虫が天帝に、その人の罪を知らせ
永正9年(1512)夏、北条早雲は大庭城を攻めようとしたが、周辺は沼地であったために難儀していたところ、近くに住む老婆から引地川の堤